Original Updated by brAin_1980
みなさま、いかがお過ごしですか。あべ(@brAin_1980)です。
2週間前に東日本大震災関連のエントリを書いて、その後高校まで住んでいた地元宮城に行ってきました。
そこで見てきたこと、聞いてきたこと、感じたことなどを記しておこうと思います。
忘れないための印・記し
年長~小3まで住んでいた松島に行ったときには、いろいろなところに地震や津波に関するマークがあった。
友達に聞いたら、いろんなところに「ここまで波が来ました」という表示があるようだ。
地元七ヶ浜
宮城県七ヶ浜町は、小3~高校卒業まで住んでいた。
震災時の津波によって面積の3分の1がやられたと言われている。
2年半が経って、ぱっと見ではがれきとかそういった目に見えるものは無くて、キレイになっているように感じた。
ただ、逆に「本当はここに○○があったはず」という場所に無かったりといったような、当時の景色を知っている人なら唖然としてしまうエリアがあったコトは確か。
見通しの悪い裏路地だったはずの道とか、キレイに無くなっていた。
私が当時住んでいた地域はこの写真のあたりでは無く、もう少し内側の住宅地だったのだが、そこまでは波が到達しなかったらしく、地震の揺れによる被害のみだったそうだ。
このあたりを営業している友達に話を聞いたら、「残っている人たちはこのあたりにまた家を建てたりする気持ちは無くて、必然的に土地が放置されている。復興が進んでいない!とだけ言うのはちょっと違う」というようなことを言っていた。
なお、被害の状況については、以下のサイトがわかりやすいと思う。
七ヶ浜町:東日本大震災(地震、津波)被害、復興状況まとめ | 東日本大震災(地震、津波)、被害状況専門サイト |
親や友達の体験談
父親は仙台市内で和食屋をやっている。
当時は1ヶ月くらい市場などで炊き出しを無料で振る舞ったそうだ。
幸いお店の電気と水道の復旧は早く、ガスは知り合いから調達(!)できたことで、早くから料理が作れる環境を取り戻したみたい。
炊き出しも初めはおにぎりから始まって、だんだん「いろいろなものが食べたい」リクエストと、市場の人たちなどから好意でいただく食材が組み合わさって、けっこういろいろな料理を提供したらしい。
相当喜んでもらえたんだろう。本人もおかみさんも概ね笑顔で話してくれた。
「そのとき自分に出来るコトは何か → 飯作ることでしょ」とその状況で思い至って、行動したというコトは、やっぱり凄いことだと思うし、子として誇らしいと感じた。
他にもいろいろあったみたいだが、その月の光熱費は桁が違った額だったそうだ…。
やっぱり支援にもお金がかかる。善意だけで何でもはできないってことも分かった。
私の友達は、幸いにも亡くなった人はいなくて、でも地震で家が壊れたとか、津波で車が流されたとか、そういう人は多数。
しばらくは避難所だったり、自宅に戻っても冷蔵庫に食材が無かったり。
とはいえ、幸いにも(?)あまり当時がしんどかったというような話は無かった。したくなかっただけかもしれないけど。
今は今で仕事もしていて、生活出来ているようだ。
感じたこと
エリア差はとても大きいのだろうけど、また個人差もとても大きいのだろうけど、今回話した人たちや見てきた場所だけで言えば、それなりに復興していて、通常通り生活をしていると感じた。
ただ、これだけで全体を「問題なし!」と言うつもりは無くて、そんなことは出来ないと思う。
なかなか地元にいずして、細かいコトを把握するのは難しいが、例えばボランティアとか何か地域活動などに参加すると、もっといろいろ分かってくる気がしてきた。
まとめ
前回のエントリから何か考えが変わったかというと、そんなことは無かったです。
とはいえ、もっと地元に対して何かできないかとこの1週間はずっと考えていました。特に答えは見つかっていませんが。
こういうとき、ユイちゃんが「口じゃ無くて、手を動かしてください!」というんだきっと(by あまちゃん)
ただ、何でもそうなんだろうけど、限られた時間ではどうしても1側面でのアプローチしか出来なくて、起きていること全てを把握するのは難しいと感じました。
あとは、持っている人脈とかそういうのもあるんだろうかと思います。
今回話せなかった友達もまだ居ますし。
ひとまず、旅行者が出来るコトとして、お土産をいつもより多めに買いました(笑)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※追伸(?)
後日、ネットで七ヶ浜応援グッズを売っているサイトを見つけて、Tシャツとタオルを買いました。
少しでも助けになればいいなと思っています。
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